ミシェル・ウィー

ミシェル・ウィー(Michelle Wie, 1989年10月11日 - )は、アメリカ合衆国・ハワイ州ホノルル出身の女子プロゴルファーである。韓国系アメリカ人で、韓国語名はウィ・ソンミ(위성미、魏聖美)という。長身を生かした抜群の飛距離を大きな持ち味とする選手。

略歴(アマチュア)

大韓民国出身の両親の間に生まれる。4歳からゴルフを始め、父親の指導を受ける。5歳の時にはドライバーショットで100ヤード飛ばしたという。2002年からプロ選手のトーナメントに挑戦を始める。2004年1月、故郷の大会である「ソニーオープン・イン・ハワイ」でPGAツアーの男子大会に出場する。2日間を「72・68」のスコアで回り、第2ラウンドを60台のスコアで回ったことで注目を集めたが、予選通過ラインに1打及ばなかった。同年3月のクラフト・ナビスコ選手権で4位入賞。これらの活躍を評価され、14歳のアマチュア選手でありながら、5月に第5回「ローレウス・スポーツ賞」の「最優秀新人賞」を授与された。そして全米女子オープンでは、過去に前例のない「予選免除」での出場を認められた。しかし、2004年8月の「全米女子アマチュア選手権」では2回戦敗退に終わっている。2005年には全米女子プロゴルフ選手権で主催者推薦出場を認められ、15歳にして2位入賞。7月第3週に行われた男子のアマチュア大会「全米アマチュア・パブリック・リンクス」にて準々決勝進出。(この大会の優勝者にはマスターズの招待資格が与えられるため、ウィーは女子選手初の同大会出場を狙っていた。)全英女子オープンにも「特別招待選手」として出場し、3位に入った。

略歴(プロ)

2005年10月5日、16歳の誕生日の6日前にホノルルでプロ転向を表明した。プロ転向初戦となった「サムソン・ワールド・チャンピオンシップ」ではスコアの過少申告(第3ラウンド、7番ホール)で失格となる。11月に高知県の「Kochi黒潮カントリークラブ」で行われた日本ゴルフツアーの男子大会「カシオワールドオープン」でも、4オーバーパー(+4, 148ストローク)で予選を通過できなかった。

2006年2月20日付で女子ゴルフにも世界ランキング制度がスタートし、ミシェル・ウィーは最初のランキング表で「3位」に入った。翌週の2月27日から、ウィーの世界ランキングは2位となる。この順位は、彼女の獲得ポイントを単純に出場試合数で割り算した平均点であった。しかし、同年8月8日付から世界ランキングの算定方法が変更され、出場試合数の少ない選手でもすべて「35」で割り算する方式に変わった。全英女子オープンゴルフ終了後、新方式に基づく世界ランキングでロレーナ・オチョア(メキシコ)が2位となり、ウィーは7位に後退した。この年も11月のカシオワールドオープンに招聘を受けたが、予選2日間で17オーバーパー(+17, 161ストローク)をたたいて予選落ちした。

2007年、ウィーは両手首に故障を抱え、ゴルフ成績が一気に急降下した。彼女の2007年度メジャー大会成績は以下の通りである。

  • クラフト・ナビスコ選手権:不参加
  • 全米女子プロゴルフ選手権:84位(決勝ラウンド進出者では最下位)
  • 全米女子オープンゴルフ:初日1ラウンドで途中棄権(第1ラウンドのスコア:82、11オーバーパー)
  • 全英女子オープンゴルフ:予選落ち(2日間のスコア:73+80=153ストローク、7オーバーパー。予選通過ラインに2打足りず)

この結果、彼女の世界ランキングも急降下し、2008年3月24日付でついにTop100位から落ちた。2008年度のメジャー大会は、出場できたのは全米女子オープンのみで、予選落ちに終わる。7月の「ステートファーム・クラシック」では、3日目終了時点で2位に付け、ようやく復調の兆しを見せたのだが、その後、2日目の競技終了後スコアカードに署名を忘れるミスを犯したことが発覚し、失格となった。この失態の直後、8月4日付の世界ランキングで自己ワースト順位の「310位」を記録する。ようやく2008年度のLPGAツアー「クオリファイイング・トーナメント」(シード権獲得のための資格試験)に合格し、2009年度のツアーシード権を獲得した。合格者は20名で、ウィーは7位で予選会を突破した。一緒に合格した選手には、日本の大山志保と宮里美香も含まれている。

2009年、LPGAツアー開幕戦のSBSオープンでは首位から3打差の2位となった。

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モン・サン=ミシェル

概要

モン・サン=ミシェル(Mont Saint-Michel)とはフランス西海岸、サン・マロ湾上に浮かぶ小島に築かれた修道院である。カトリックの巡礼地のひとつであり「西洋の驚異」と称され、1979年「モンサンミシェルとその湾」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録され、1994年10月にはラムサール条約登録地となった。

地形

ノルマンディー地方南部・ブルターニュとの境に近いサン・マロ湾はヨーロッパでも潮の干満の差が最も激しい所として知られる。潮の満ち引きの差は15メートル以上ある。このため、湾の南東部に位置する修道院が築かれた岩でできた小島はかつては満ち潮の時には海に浮かび、引き潮の時には自然に現れる陸橋で陸と繋がっていた。島の入口には潮の干満時刻を示した表示があり、満潮時には浜に降りないようにと記されている。最も大きい潮が押し寄せるのは満月と新月の28-36時間後といわれており、引き潮により沖合い18kmまで引いた潮が、猛烈な速度で押し寄せる。このためかつては多くの巡礼者が潮に飲まれて命を落としたといい、「モン・サン=ミシェルに行くなら、遺書を置いて行け」という言い伝えがあった。1877年に対岸との間に地続きの道路が作られ、潮の干満に関係なく島へと渡れるようになった。しかし、これによって潮流をせき止めることとなり、100年間で2mもの砂が堆積してしまった。急速な陸地化が島の周囲で進行しており、島の間際まで潮がくることは滅多になくなりつつある。かつての姿を取り戻すべく2009年には地続きの道路が取り壊され、2010年には代替となる新たな橋がかけられることが計画されている。

建築物

主要部はゴシック様式だが、内部はさまざまな中世の建築方式が混ざり合って構成されている。教会堂はカロリング期の様式で、身廊はノルマン様式(11~12世紀)、百年戦争後の1421年に破壊されたロマネスク様式の内陣はフランボワイアン・ゴシック様式(15世紀半ば~16世紀初頭)として再建された。これら周囲を13世紀の重層構造の修道院建築と13~15世紀の軍事施設が取り囲んでいる。ゴシック・リヴァイヴァル建築の鐘楼と尖塔は1897年に完成し、その上に奉られた剣と秤を持つ金のミカエル像は彫刻家エマニュエル・フレミエによって製作された。深層部からは、岩山の上に幾層にもわたり建造され続けた建築遺構も残る。

モン・サン=ミシェルの歴史

この島はもともとモン・トンブ(墓の山)と呼ばれ先住民のケルト人が信仰する聖地であった。708年、アヴランシュ司教オベールが夢のなかで大天使・ミカエルから「この岩山に聖堂を建てよ」とのお告げを受けたが、悪魔の悪戯だと思い信じなかった。再び同じ夢を見たが、また信じなかった。ついに3度目には大天使はしびれを切らし、今度はオベールの額に指を触れて強く命じたところ、オベールは稲妻が脳天を走る夢を見た。翌朝、オベールは自分の頭に手を置くと脳天に穴が開いていることに気づいて愕然とし、ここに至って大天使ミカエルのお告げが本物であると確信してここに礼拝堂を作ったのが始まりである。966年にはノルマンディー公リチャード1世がベネディクト会の修道院を島に建て、これが増改築を重ねて13世紀にはほぼ現在のような形になったものである。中世以来、カトリックの聖地として多くの巡礼者を集めてきた。百年戦争の期間は島全体が英仏海峡に浮かぶ要塞の役目をしていた。モン・サン=ミシェルの入り口には今もイギリス軍が捨てていった大砲とその弾が残っている。18世紀末のフランス革命時に修道院は廃止され1863年まで国の監獄として使用され、その後荒廃していたが、ヴィクトル・ユゴーの紹介がナポレオン3世を動かし、1865年に再び修道院として復元され、ミサが行われるようになった。19世紀には陸との間に堤防を造成して鉄道・道路ができ陸続きになり(鉄道は後に廃止)、フランス西部の有数の観光地となっている。1979年にはユネスコの世界遺産に登録された。2006.8.5現在、3人の修道士が在住し、9人の修道女が近隣の町から通って運営に当たっている。近年、堤防の影響により、島の周囲が砂洲化しつつあり、国家事業として、かつての「島」に戻すプロジェクトが進んでいる。

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